第5話へちま亭と文章塾
2006-03-09


禺画像]
1970年代後半から1980年代前半、少年から大人に向かう多感な時期に「群像」はぼくらのあこがれだった。社会が新しい表現に飢えていた気がする。修辞のよさではなく、若いみずみずしい「感性」にぼくらは共感した。「ぼくらにも手が届くかもしれない」というはかない夢を見てた時期でもある。

社会に出ると同時に夢を一箱のダンボールに閉じ込めた。出さずに終わった未完の原稿たちが、「ぼくら」のパンドラの箱につまったまま、まだ手もとにある。その中の十編ほどが、あるとき、そう最初の会社で社会人の夢を失ったとき、ショートショートコンテストや新作落語の応募に希望と一緒に出てていった。そのあと箱をガムテープでぐるぐる巻きにした。

2004年4月にASAHIネット主催の「私のコラム・へちま賞」に、今の会社での一こまを書いて応募した。へちま亭が1000回で終わり、公私ともにいろいろなことが残念でしょうがない時期だった。公募で入賞したのは生まれて初めてのこと。おかげでそのあとの理不尽な出向を割切ることができた。
それでも2005年6月には仕事も与えられず、仕方がないので工場内の清掃やヤードの鋼材とかスクラップの片付けをやっていたが、気持ちは自暴自棄になるばかりだった。そのときに「へちま亭サロン」で文章塾が開催され、
最初の社会人の夢を失ったときのことを書いて応募した。優秀賞をいただいたときには、人のいない夜の工場で、大声で吠えた。

自分の考えをわかりやすく正確に相手に伝える。バーバラ・ミントのテキストで始まった「へちま亭サロン文章塾」は目からうろこが落ちるものだった。自分の思いを書くことによって、今までの自分に欠けていたものが、少しずつわかってきた。仕事に対して、人に対して、家族に対して、文章に対して、そして自分に対して。

「へちま亭文章塾」ではブログのおかげで実戦形式の文章が書けるようになってきた。相手にどのように伝えるか、ほかの人にはどう伝わったか。そして書き手の文章をどう読むか、ほかの人はどう読んだか。文章は武器にもなるし人を救う神の手にもなりうるのだ。そう、書くということは自分の夢をかなえる、「ぼくら」の魔法の杖なのだ。ブログへちま亭文章塾は今のわたしのあこがれだ。もう一度、箱を開けよう。夢は箱の中ではなく、いつもわたしとともに、ここにある。
[文章塾]

コメント(全13件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット